カテゴリ:ユーラシア旅行記( 8 )


やはり中央アジアは羊の国。
トルクメニスタンの市場ではフェルトの絨緞が広場にずら〜〜と並べられていた
その向こうでは くりくりした白い羊の毛をそのままカツラのようにした、
男性用の帽子が売られている。
広〜い砂地にたくさんの棒をたててその一本一本に帽子がのせられている様子は
まるで現代アート。 美しかった。
荷物になるから買うまいと思っていたものの・・
ひょんなきっかけでお邪魔した家にもフェルトの絨緞が敷かれていて、
やっぱりどうしても欲しくて、譲っていただいた。
いくら?と聞くと「5$」ですって!
絨緞輸入業をはじめるか?なんてね、一瞬そんなこと考えてしまいました。

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これがその絨緞。

でもそれ以降、リュックの上に絨緞をくくりつけての旅となりました。重たい

ウズベキスタンからキルギスタンへ。
トルコから段々東へ移動していってるのだが、人の顔立ちも少しずつ
変わっていってるように思われる。キルギスタンまで来た時、
私の顔と地元の人達の顔がぴったり重なったらしい。
「あんたが旅行者だなんて信じられない!あんたキルギス人だよ!!」
と、あちこちで驚かれた。

キルギスから天山山脈を越えてのルートで中国に入りたかった。
仕事でトラックで来ている中国人と交渉して乗せてもらえることになった。

そう、中央アジアでは”ラグマン”と呼ばれる
トマトソースと羊肉で煮込んだうどんが何処の料理屋にもある。
これがすっごく美味しくて、日本に帰ってからもそれ風のをよく作って食べてる

中国のカシュガルへ。ウルムチから又列車で北京まで。
そういえば、最初北京に着いたときは天安門広場で凧を買って凧揚げしてたっけ
半年振りの北京は、やっぱり大都会で疲れる。
逃げるように天津へ。あの学生証で日本までのフェリー料金、安くなる。
フェリーでは2泊3日ほとんど眠り続けていた。

半年の旅が終わった。

グルジアへの感謝の思いは心の中に深く残っていた。
旅で感じた、人の優しさ、親切、弱さも、残酷さも含めて・・・
それら全てが、ハチャプリの味の中にぎっしりと詰まっているように思われた。
いつか何かの形でご恩返しがしたい、その時は”ハチャプリ”という屋号で
何かを始めよう。秘かにそう誓っていた。

長い旅をともにした彼とも5年後に別れた。
別れる当日、私はあの旅で使ったリュックを背負い、
その上にはトルクメニスタンで買った絨緞を同じようにくくりつけていた。
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彼から小さな声で、私は英語が分からないという設定で黙ってて、と言われる。
で、入国した経路などを細かく話すんだけど
バクーからトビリシ行きの夜行列車が来るからそれに乗って戻って、
もう一度入国スタンプもらってこい、なんて言われる。
それが嫌なら、「罰金90$」おい、またかい。
しかし今回の値引き交渉は一筋縄ではいかなかった。
脅されたりもしつつ、それでも彼は時間をかけて10$まで値切った。
そして汽車は、私達の交渉が終るまで出発しないで
待っていてくれたのだ。

  書いていて気付いたけど、もし100$札しか持っていなかったら
  どうなっていたか。まさかお釣りはもらえないだろうし。
  日本でドルを両替した時、1$、5$、10$札をたくさん用意した彼。
  いろいろ考えて準備してたんだなぁ、なんて改めて思った。

無事にまた乗車できることになった。
やれやれ、荷物を担いでホームへ出る。(みんな外に出て見送ってくれた!)
部屋の中で、他の警官との会話には加わらずに
少し離れて黙って座っていた年配の男性がいたのだが、
彼が、汽車に乗込む寸前 黙ったまま私に柘榴を差し出した。
”嫌な思いをさせてすまなかったね”と、目が語っていた。

動き出した汽車の中で、柘榴をかじりながら
そういえば、パラジャーノフの「ざくろの色」がきっかけで
グルジアまでやってきたのに、今はじめてこの国で柘榴を食べてる・・
って思った。
いただいた、あの柘榴の味が忘れられない。
かじるたびに甘酸っぱい果汁が口にひろがって、そのたびに
やっぱりグルジア好きだなぁ、の気持ちもひろがっていった。

翌朝、バクーに到着。
声をかけてきたタクシー運転手に、とにかく安いとこ、って頼むと
お兄さんの住むアパートが一部屋空いてる、と連れてってくれた。
実はバクーでの記憶がかなりあやふやになってる。
トビリシとは違って近代的な建物の多い町だなぁ、という印象だった。
人形劇の劇場を発見、世界各国の人形のミュージアムもあった。

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カスピ海を渡るフェリーで、対岸の国トルクメニスタンへ。
明らかに定員オーバーと思われる、すし詰めのフェリーはちょっと怖かった。
カスピ海を見ようと外に出たら甲板にも人、人、人があふれていた!

とうとう中央アジアだ。


続く
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その村で、石の彫刻家の家に泊めていただいた。
自家製のパン、蜂蜜、木いちご、川魚、ワイン・・・
まるでピロスマニの絵によくある、野外にテーブルを出してごちそうが並んでる
あの絵の中に入り込んでしまったかのような数日間だった。
今までの旅はこの瞬間のためにあったのかと思うような
夢のように美しい記憶でもあり、また実はスゴい迷惑をかけた場面でもある。

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夕暮れ時、夕焼けに染まる山を背景にして村の人達数人で輪になって飲んだ。
立ったままグラスを持って、誰かが短く挨拶して、乾杯。飲み干す。
また挨拶、乾杯。飲み干す。また挨拶、乾杯・・・
断るのは失礼か、と飲み続けたあと、家に戻ったあたりで
地面がグワンと揺れて視界が急に狭くなった。
そしてその夜、お世話になっていたその家で私は泥酔してしまい
もう、もう、もう 本当にごめんなさい!!
住所も名前もわからなくなってしまったけれど
またいつかその村を訪れて会って、ありがとうって言いたいのだけど・・

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次の日も、同じように接して下さった家族に感謝、そして恐縮しつつ
トビリシに戻ったのでした。
その後2、3日、2人とも歩き回る気力をなくしてぼんやりとしてしまった。
村の人達の暮らしぶり、気持ちの温かさ、彫刻家の仕事と生活。
私も彼も、同じく造形家であり、北海道の十勝の田舎に住んでいて・・・
でもこんな地に足の着かない暮らしで何をやってるのだか。
彼は、日本に帰って作品をつくりたくなった、と言うし
私は毎晩同じような夢をみた。夢の中で日本の友人に会っていて、
「まだ旅行中だけどちょっと帰って来たの、また明日グルジアに戻る」
ってしゃべってる夢。
日本を出てから5ヶ月がすぎていた。

その土地で生活していく、ということを深く考えさせられたのが
グルジア、という国だった。・・何故?
政治的、経済的には大変な状況にあるのだろうけれど、
どこか懐が大きくて、あふれるように豊かな何かを
グルジアで出会った人達から感じとったのだと思う。
あふれでる豊かな何かは、人柄?歴史?文化?風土?

私達は日本に帰ってどう生きていくの?そんな問いを胸に抱えつつ、
でもとにかく移動しないと先へ進めない。
アゼルバイジャンのバクー行きの夜行列車に乗込んだ。

国境手前にて、パスポートチェック。ここで、
入国時にビザにスタンプが押されてないじゃないか、と列車を降ろされた。
真夜中の駅舎で、6人ぐらいの警察官にずら〜りと取り囲まれる。


すまん、まだ続く。
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何はともあれ、街歩きから。
おばあさんが、指差す道を「プリャーモ・プリャーモ」と言う。
まっすぐ歩いていきなさい、ってことのようだ。

木造の古い家が多く、バルコニーに透かし彫りが施してあるのが何とも美しい。
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ロシアでも、エストニアでもトルコでも感じることのなかった、
不思議な異国の香りがする。
味わったことのないその異質な空気はとても力強くて心地よい。
これがパラジャーノフの故郷か・・とうっとり歩いていくと
中心にきたのか、通りがだんだんにぎやかになっていった。
古い家だけでなく、大きなビルも出てきたけど、これは・・銃弾のあと?
美しいだけでなく、破壊されたつめ痕のような部分も目につき始めた。

それにしても道を歩いてく人達の美しいこと。
みんな、まるでギリシャ彫刻のようだ。大柄で姿勢がよくて・・

とみとれていると、警察官が近寄ってきた。長い銃をかついでる。
パスポートを見せなさい、のあとちょっと署まで来なさい、となった。

取調室みたいなとこで、延々質問。
旅行者だと言ってるのに、「働きにきたんだろう?」と
道路工事の身振りをしてみせる警察官。
さらに、「罰金80$」???
何をされるか分からないし、勿論とても怖いけど、80$なんて払えない。
で、そんな大金もってませ〜ん!!!とオーバーな演技で
値引き交渉、結局10$払って、帰ってよしとなった。

こんなことが、滞在中、数回あった。
皆、判で押したように80$、又は90$、を要求するのだ。
本当は100$って言いたいんだけど ちょっと気がとがめて
それで80とか90って言うんだろうか。
やはり旧ソ連国、一部の役人と警察官が良くないんだろう。

そんなことから、街を歩く時は気を抜けなくていつもどこか緊張していた。
だから逆に、人の親切と優しさが本当に身にしみて嬉しかった。
ハチャプリは、いつも誰かしらが御馳走してくれた。
ハチャプリの屋台のおじさんまでが、旅行者か?とハチャプリを差し出した。
お金を渡そうとしても皆、笑って受け取ってくれなかった。

ひょんなきっかけで、フェルト作家の兄弟と知り合った。
弟のほうが少し英語が出来て、いろいろと話ができた。
大学はモスクワの芸術大学で学んだこと、その後ソビエトが崩壊して、
今この国で芸術家として生きていくのがとても困難なこと。
郵便事情が悪くかつての仲間達と連絡も取れないこと。
胸にずしりと重たい内容ばかりだった。
彼らの友人の彫刻家が田舎にいるからよかったら行ってみたら?と
村の名前を教えてもらい、長距離バスの出る駅へ。
バスに乗りこむ前にハチャプリを買おうとしたらまたもやいただいてしまった!

バスで半日以上かけて走る、その景色が素晴らしかった。コーカサスの山の斜面が
目の前にパノラマでグワ〜〜ッと広がり、空気の中に何か霊感のような、
純粋で美しいスピリッツのようなものがたくさん含まれている、感じ。
そのスピリッツに自分の何かがちくちくと刺激され続けてる感覚。
ここに住みたいと本気で思った。
旅を続けていて、そんな風に感じた場所は初めてだった。

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            村の山を背景に立つ、彫刻家の作品



まだ続く。
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バスの乗り継ぎもスムーズにはいかない。
警察官に国境情報をたずねながら移動していき、
もう今日中に入らないとタイムリミット!の当日。

ぼろぼろバスの最終駅で降りて運転手さんから、この道をまだまっすぐ
歩いてくと国境だ、と言われてポコポコと歩いていくと、あった、あった。
銃を持った兵士さん?達がいる。あぁ、やっと来たアルメニア。
数分後、もと来た道をとぼとぼ戻リ、何時来るやら分からないバスを待つ二人。
ここからは入れないって言われた(涙)

黒海に面した町、バトゥーミに住んでる、というグルジア人の若い夫婦と
トルコを出る時になって知り合った。
車に乗せてもらいバトゥーミまで一緒に行くことになった。
トルコを出国、いよいよグルジア!
入国時、ドキドキしながらパスポートをみせる。
その時、私達のビザに実は入国のスタンプが押されなかったのだが(故意に?)
ずっと気付かないでいた。
そしてそれは出国時に大きなトラブルとなる。

バトゥーミではお世話になったご夫婦の家に泊めて頂く。
黒海は美しかった。大クラゲがプカプカ浮かぶ海辺でボートに乗った。
小さなトラブルもあり、ここからの旅程は旧ソ連が続くから・・と
気を引き締めてトビリシ行きのバスに乗込んだ。
一日揺られて、確か夜10時を過ぎていたか、首都トビリシの駅前に到着。
駅前とはいっても閑散としてる。辺りは真っ暗、人気もほとんどない。
地図はない、言葉もできない。

こんな状況は長旅だとたまにあるけれど、
いつだって、彼にはまるで旅の神様がついているかのようだ。
何処からか、人が現れて声をかけられた。(多分ロシア語で?)
泊まるところを探してるんだろう?と、ある家まで連れて行ってくれた。
おばあさんが出て来て、空いてる部屋を示した。
あ、ありがとうございます・・!!と思わず深くおじぎ。

翌朝、そこは中庭をとりかこむように何家族かの住居が並ぶ、
長屋アパートのような建物だとわかった。トイレも共同だ。

住人の誰かがチーズのたっぷりはいった焼きたてパンを持って来てくれた。
「美味しい!これ何っていうの?」と身振り手振りで聞くと、


「ハチャプリ」
      
     
      これが私のハチャプリ初体験でした。



・・・まだ続く。
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窓口がふたつある。ひとつは旅行者用、もうひとつはロシア在住の人?用・・?

グルジアへの憧ればかりで、その頃わたしは無知だった。
ソビエト連邦が崩壊して、内戦の後、グルジアが大変な状況にあることも
よく知らなかった。
渡航はあまりおすすめしません、との張り紙はあったけれどビザをとった。
あの時、暗い表情で部屋にいた人達はロシア在住のグルジア人だったのか、
難民になって国を逃れた人達だったのか・・声をかけれる雰囲気ではなかった。

モスクワから汽車でサンクトペテルブルグへ。
数日滞在して、夜行列車でエストニアへ。
列車の乗り降りの度にホームか又は駅の前で自転車をばらす。また組み立てる。
その度に、人が集まって来て大道芸人のように人の輪が出来た。

エストニアは美しい街だった。そしてここまで来ると、
おぉ!フェリーに乗ったらたった一晩でフィンランドに行けるんだって。
夜、フェリーに乗込んで翌朝到着。
北欧まで来るなんて思いがけない展開になってワクワクしている。
フィンランドは自転車の旅人にとっては天国のようだ。
道路が平らで段差もなくてすごく走りやすい。湖まで楽しく走った。

でも、とにかく物価が高くて困った。
ヘルシンキでは共同台所を使える宿に泊まって自炊した。
すみやかに物価の安い国に出ないと、とトルコ行きの飛行機に乗る。
この旅で唯一の飛行機。学生証が威力を発揮する。

イスタンブールも、くらくらするような魅力的な町だった。
細い路地、ボコボコの石畳?のような道が多くて自転車にはつらい。
ここで大決心。
泊まっていた宿の主人と交渉して自転車2台をひきとってもらった。
あぁもう羽根がはえたような、スキップして小躍りしたいような気持ちだった。

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    民族音楽フェスティバルに遭遇。これは、ロシアからの楽団。


宿の主人から、田舎の両親がりんご農家でもうすぐ収穫の時期。
手伝いに行ってみないか?実家に泊まれるし、と誘われる。
さっそく移動すると、日本人バックパッカーたちが4人ほどいて驚いた。
旅行者達が入れ替わりながら手伝ってるみたい。
あと、イギリス人が一人。みんなで毎朝おじいさんの運転するトラクターで
りんご園に通った。

ご飯はおばあさんに教えてもらいながらつくって、みんなでちゃぶ台で食べた。
のんびりと時間が流れていく。時々近所の女の子達が遊びに来たり、
つかの間の休息(働きに来てるんだけど!)、って感じで楽しかった。
朝はたいてい明け方くらいに顔に大きなバッタが飛び乗ってそれで目が覚めた。
この頃の写真を見ると私の顔は陽焼けしてもう真っ黒になってる。

バスを乗り継ぎながら、アルメニアとの国境近くまで行く。
ビザをとってあるが何月何日までに入らないと無効になってしまう。
その期限がせまっていた。どのルートが一番早く入れるのか?


まだ続く。
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モンゴルにはビザを延長して1ヶ月半程いた。
全く話せなかったモンゴル語も、お世話になった家族が辛抱強く
つきあってくれたお陰で、ほんの少しは話せるようになっていった。
思い出すのは 広々とした大地。深いブルーの青空。
大らかでユーモアもあるモンゴルの人々。
馬乳酒、アルヒ(蒸留酒)、羊の肉、タルバガンの肉、チーズにバター
そして、自転車で走るには不向きなでこぼこ道。

ウランバートルからシベリア鉄道でイルクーツクへ。
さて、ここからバイカル湖まで自転車で行こう、と鬼のような提案が・・・
地図も手に入れて、とにかく川沿いに行けばよし、とのことだったが。

その道のりが坂道の連続、合計40回を超すアップダウンの繰り返しだったとは。
1日ではとても辿り着けず、小さな湖のほとりで野宿。
古びたボートが岸辺につながれていたのでそこに寝袋をスタンバイさせた。
ゥワンゥワンとやってくる蚊も、
頭まですっぽりの寝袋と、蚊よけクリームを用意してたので大丈夫。

よれよれで辿り着いたバイカル湖は美しかった。
また野宿。朝、起きてバイカル湖の水をくんできて作ったコーヒー、美味!
帰りはとても自転車に乗る気になれず、イルクーツク行きのフェリーに
乗ったら、なんてこった。1時間くらいで着いてしまったよ。

再びシベリア鉄道でモスクワへ。
この列車は途中、何回か駅で止まる。ホームには地元のおばさん達が、
ブルーベリーや、自家製のピクルスやお菓子やパンを売りにきてる。
いろいろ買い込んで車中で食べるのは本当に楽しかった。

で、とうとうモスクワ。
久し振りの大都市で目がくらみそう。
ユースホステルに泊まった。受付の壁に貼ってあるポスター
「学生証、作ります。10$」にまず目がいき、早速作ってもらう。
これは、旅の最後まで大変役に立った。

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苦労してチケット入手したボリショイサーカス。
生まれてはじめてのサーカス体験


約1週間の滞在中、毎日のように旧ソ連国の領事館に通い、ビザをとる。
アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア、ウズベキスタンに
トルクメニスタン、キルギスタン・・自転車でほとんど領事館めぐりの日々。
道路の交通量が半端じゃなくスゴくて、私はいつもおびえながら走っていた。

憧れの国だから、グルジアの領事館に入っただけでもうドキドキ、ワクワク。
殺風景な部屋には沈痛な面持ちの濃い顔の人達が、言葉少なにたむろしていた。




まだまだ続く。
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始めてグルジアを旅したのは13年前だったか。
すんなり入ったわけではなく、中国とモンゴルのビザだけ手に入れて
神戸港から天津行きのフェリーに乗ったのでした。
一人旅じゃなくて、芳一さんとはまだ出会ってなくて
その、あの、別な男性と。彼は旅とチベットをこよなく愛する人でした。

フェリー降り場から北京まで乗り合いバスに乗り、
車内で、乗る前に交渉していた運賃の1.5倍払え、と言われる。
リュックが大きいからだって。
周りの日本人バックパッカー皆が仕方なく1.5倍を払う中を、
彼はほんの少し出来る中国語で反論をはじめて、15分以上も
言い争っていたか。中国人も一歩も譲る気配なし。
殴られたら大変そうな強そうな男で私はハラハラするばかり。
最終的には和解成立、そのままの運賃を払い、握手もして
そして2人は世間話をはじめた。私だけ、がっくり疲れている。
でも、でも、たしか運賃200円(ぐらいだったか)のところを
300円って言われてそれを20分もねばって200円に戻した、のだよ。

何十円のバス代を節約して歩き続けたり、貧乏エピソードはいっぱいある。
でも屋台のご飯はどれも美味しかったな。

汽車やバスやヒッチハイク・・・でウランバートルへ。
モンゴルでは偶然の出会いからあるタクシー運転手さんのアパートに
居候させていただき、毎日モンゴル家庭料理を御馳走になった。
夏に入り、田舎で羊や牛を飼っているお婆ちゃんのゲルに家族みんなで
手伝いにいくのだけど一緒に来るか?と誘って頂き
「行きます行きます!!」と二つ返事で、ゲルでの生活に突入。

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ナーダムにて、子供達だけの馬のレースがあった。皆、かっこ良く乗りこなす!


田舎に移動する直前になり、彼はウランバートルのザハ(市場)で
中国製自転車を2台買った。
これからは自転車で移動するんだって・・!
モンゴルのあと、シベリア鉄道でロシアに入るつもりでいたけれど
汽車に乗る時は 自転車のタイヤとかをバラして小さくして乗るんだって!
これからは駅で降りる度にその町で一番の安宿を、
自転車で探しまわれるから気楽でいいじゃないか、だって!
オイ、私は自慢じゃないが運動神経も体力もへなちょこなんだってば・・・

このひたすら重い自転車は、ギアが4つ?あるマウンテンバイク(もどき)で
そのうちひとつのギアは乗り始めて3日もせずに壊れた。

書き始めたものの、グルジアにいきつくまでには まだまだ。ゼイゼイ。

今は別れた、その彼はどうしているやら。
このところのチベットの大変な状況をニュースで聞く度に、考えてしまいます。

旅の話、まだ続く。
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