カテゴリ:制作ノート( 8 )


久しぶりの制作ノート。5月の個展からまたずいぶん時間があいてしまった。
いろいろ書くとキリがない、とにかく自分が前回の制作ノートに書いた短歌のごとく、
なってしまってたから。いや全く、碧き口あく老婆....でしたが大分元気になりました。

どこから振り返るのがいいか、個展の1ヶ月前に、3年前から受け持っている、
テキスタイルを専攻する大学生へのフェルト造形の授業があった。
若い人たちと作る時間を一緒に過ごせるのは理屈抜きに楽しい。
最終日の授業の後に、私自身の制作や活動のこと等を話すレクチャーを
お願いしますと言われていて、レクチャーなんて初めての経験なんだけど慌てて昔の写真
をスキャンしたり、フェルトを作り始めた頃から今までの考えをざっくりと言語化したり。
そのおかげで改めて気づいたことが幾つもあった。
展覧会ではいつも、作ったものを展示すること以上に会期中の時間の流れや、
変化していく空気や気持ち、が自分にとって重要だった。
展覧会とパフォーマンス、のスタイルが試行錯誤しながら今まで続いてきた、その原点を
もう一度掘り起こすような作業ができた。

ストライプハウスでの個展は、パンチ式オルゴールをつかって時の行方を追いかける試み、
と紹介文をつけた。そして人形は一つも出さないと決めた。
人の形があると、どうしてもそちらに目がいってしまう。もう人形は作らない、というの
ではなくて、ギャラリーの中に作品と、人と、流れる時間。
シンプルな設定にしたかった。
のだが... パフォーマンスの時についやってしまった大失敗。
小さな針金で出来た人形を(わざわざ家から持ってきて)登場させてしまった。。
なんでなんだろう、あの時の気持ち。
どこか不安な気持ちを人形にすがってしまった、ってことなのか。
そして、そんな気持ちで登場させられた人形は、皆の視線を一身に浴びて、ぼぼ僕、、
と可哀想なことをしてしまった。

私がもっと上手く遣えていたなら、とか関係性をきちんと考えて持てていれば、とか
それもありだろう。が、やはりそれ以前の問題? 
人形に申し訳ないことした、、な気持ちが残ってしまった。
そして、たった一つの小さな人形が時間の流れや空気の流れや、変えてしまうくらいの
大きな力を持つんだ、、、胸に刻み付けておくこと。

制作ノートのつもりが、話が脱線してしまった。
気を取り直して、その8で何か書けるだろうか。
来月は昨年も参加した人形展「みそろぎ展」に参加する。
会期中、パフォーマンスもあり、少しずつ準備を始めています。

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*ホームページのサーバーを移転しました。
 新アドレスは、http://hachapuri.sakura.ne.jp です。
 中身は今までと同じです、どうぞよろしくお願いします。
 





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去年は個展はなかったが、パフォーマンスの中で何度か自作のパンチ式オルゴールを使った。
引っ越しのタイミングと重なり、何か儀式めいた印象で記憶に残った。

今はパンチ式オルゴールを使って二つの作品を作っている。
出してしまえば遠ざかっていく音。
いつかまた戻ってくる音。
日曜大工的な作業が多くて、でも体を動かして作れるのは楽しい。
が、試運転がまだこれからなのだ、、!
動かして、ある時間の経過があって、初めてやろうとしてることが掴めるんだろう。
10日間の会期の中でもそれは変化してくだろう。
作品というより実験装置のようでもあり。
手を動かしながら、手を休めて作りかけのを見ながら、自分が何を追いかけているのかが
ずいぶん違ってきてるなぁと思う。
じゃあ何を追いかけてるのか....  
以前に書いた、形を変えながら流れる水滴。に通じていくような。。


個展のタイトル「空の港」
空港、好きな言葉だったけど、この短歌で出会い直したような言葉でもある。


風の餌食なり空港に今日の百合売りつくし碧き口あく老婆

塚本邦雄の短歌、好きな一首。


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タイトルは「シャボン玉」  薄いシルクから透けて見える小さな宝ものたち。
意図してシャボン玉を作ったわけではなかったけど、出来てみると
追いかけるうちに自分までシャボン玉になってしまった子供のように思えてくる。

ここ最近の、細いワイヤーだけで作ったり、小さな泡だけをつなぎ合わせて作った「一瞬の娘」シリーズ
から発展してこうなったかなぁ、、と思う。



ずいぶんと前、北海道の十勝にいた頃に、真冬の車の中で大変な会話をしていた。
あまりに大きく重たくて、疲れで頭がついてけなくなり、ぼんやりとフロントガラスを見ていた。
降り続く雪はガラスに当たるたび水滴となって、その丸い粒たちはガラス上をゆっくりと流れ、
ぶつかりあい、ほんの束の間、ヒトの形となり、また姿を変えていく。
こんな人形を作れたらいいなぁ、、とぼんやり考えていた。
シビアな状況の中でそんなイメージを追いかけている、こと自体を不思議だと思って、
いつか作ろう、とずっと自分の中に沈んでいた。

もう20年近く前の話、今頃になって、あの時のイメージが浮かび始めてる。
重さ、重力に逆らえたらいいなぁと思ってるのかもしれない。
うまく言葉が見つからない、、、またそのうち書きます。

みそろぎ展にはシャボン玉と、あと4つ、そしてギターのアリアを出します。

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みそろぎ人形展
9月14(水)〜20日(火) 9時〜21時(最終日16時まで)
丸善・丸の内本店4Fギャラリー
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梅雨の中、アリアをめぐる私の考えもなんだか湿度が高めな感じに。

形あるものを作ることが怖くなってしまい、遠ざかっていた時期もあったくらいなのに
ギター、人形、、、! しっかりべったり形あり、に戻ってきてるんだなぁ、、と不思議に思う。
そして、弦を弾けば音が出る...
なんというか、真逆なことを一つの形に収めてしまって、これは下手すると
お互いに余計なことを、、、ってならないか? と今更ながら怖くもなってくる。
見えるものと見えないもの、の狭間の奥、へ行けるかどうか、
と考え込むのは好きな時間だけど、それより手を身体を動かして風を起こして
飛び込んでいければな。

このギター、もともとは浦邊さんが弾いてたもの。
なんと道端に捨てられていたのを、彼のお母さんが 「あんたなら使うんじゃないかと思って」
拾ってきたのだそうだ。 昔のSUZUKI GUITAR..いいギターらしい。
そして巡り巡って私のところに来て、人形になってアリアって名前までついたんだから
数奇な運命を辿っているのかもしれない。
この形に生まれ、この音を出し、弦を張り替えて生き延びていく。

ギターはほぼ初心者の私にとって、弦〜ストリング〜糸、と置き換えれば近しい気持ちになる。
糸を紡ぎ、織り、縫い、編み、ずっと身近にあったから。
40分ほどになるだろうソロの、少しずつ糸口が見つかっている。
ものがたりを紡いで、またほどいて、紡ぎすぎずに。


ところで、腱鞘炎。
銭湯でジェット風呂電気風呂薬草湯に浸かり、鍼に通い、でもなかなか治らず。008.gif
鍼の先生は、治療しながら手首の関節の仕組みの話やらしてくれる。
鍼を打つ音がピン,ピン、とハーモニクスで響いてきて、自分がアリアになったような気持ちになる。

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”制作ノートその2”から、半年以上もあいてしまった。

2月の個展後の日記では、こんな事を書いていた。
「かたちをなくそうとしてるのではないか、ひとつのかたちが
空間に飛び散ったような...、と個展前の制作ノートに書いた。 で、どうだった...?
細かく書き出すと切りがない、ひと言でいうなら、なくなるにせよ飛び散るにせよ、
まずその前提となる、私にとっての”かたち”そのものが、弱い、ということに気付いた...」

自分にとっての”かたち”そのもの。まだその問いかけの周りをぐるぐるしながら
作っている。
ここ数年、中身の詰まったものを作ることがほとんど出来なくなっている。
どんな材質であれ、モノを作ると空間がその分だけ遮られる、と感じるようになってしまった。
細い糸をつなぎあわせたり針金を組み合わせたり、
完全には遮らないで周りの空気を染めたり、震わせるようなものを、、作れたら。
かたちにならないかたち。定まらないかたち。

それでも、いろんな展覧会に行って人の作品を見るのは好きで、
しっかりと充実したかたちに出会うのは気持ちいい。
最近、20cm×20cm×20cm内に治まるかたち、を条件に100人のテキスタイル作家が
それぞれに作品を出展する展覧会に行ったのがとても興味深かった。
いいなぁ、と感じた幾つかの作品は、どれも研ぎすまされた透明感を讃えていた。
作り手の個人的な思いとか、余計な何かがなくて。
そんな作品は、中身の詰まったオブジェであっても、空間を遮ったりはしないで
透き通りながらそこにいるんだろうな。

そんなことを考えていると、踊りもそうなんだろうなぁ、、と思える。
やっとそれに気付き始めるとは。
消えて残らないもの...への思いから、ダンスのワークショップ通ったり音を出したり、
実はこちらの方がよほど自分には恐ろしい、手ごわすぎるものだったんじゃないか。
作ったもの、身体,音、何処かでクロスさせる、、願いは遥か彼方の闇の中...?

今は、11月に西荻窪のギャラリー494での合同展に出す作品を作ること。
それと、大阪・心斎橋でのMIDOW展。これは創作人形の公募展で、以前に
審査員とワークショップの講師をさせて頂いた縁で招待出品で参加。

そういえば、私が初めて公募展と呼ばれるものに出品したのは、人形を
作り始めた23歳くらいのとき。細い針金を編んで、全て透き通ってみえる人形、
を出したのでした。一次審査とおって2次審査で落ちたんだっけ。

・・・今だに同じようなことを考えて作っているなんて。どこか不思議な気持ち。

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    生まれたかたちは 空間に 浮かび 沈み 息づき うたう
    かるくなった私のからだは うたの行方を追って ふくらみ ひるがえり



これは、個展のフライヤーを作った時に書いたもの。
どんな空間の中で、どんな身体でそこに立つのか、、願いが先走っていた文章。

生まれたかたち..という言葉を使ったものの、
できるだけ考えるよりも先に手を動かそうと日々作り続けて、
今頃になって、まだ未完成のそれをしげしげと眺めると、かたちが生まれた、というよりは
かたちをなくす為に作っているのではないか...そんな風に思えてくる。


昨年の個展で、DMの写真にもなった濃紺の船の作品は、壊れて使えなくなった
アルト・サックスをいただいて、それを作り替えたものだった。
ヤスリがけと色塗りを何度も繰り返す中で、音を出す為に生まれてきたサックスの
あまりにも完璧な考え抜かれたかたち、の有り様に圧倒される思いだった。
作り替えるのなら、その意味をわかった上で、さらにそれを凌駕するようなものを。
そのかたちが、新しい在り方で生きてもらえるように、力を尽くすこと...
私がこれまで作ってきた ”かたちあるもの” は、かたちでありながら、架空のかたちだった。
サックスは、本当に、血肉を持った かたち だった。

サックスを船に作り替えた、あれ以来、かたちを作る、ことへの意識も変化しただろう。
作る時間と同じくらいの比重で、ライヴの時間、終われば消えてなくなる時間を
過ごしてきたから、その影響も大きいだろう。


今回のDM写真にもなった作品は、ここ15年程、フェルト制作の為にシルクの薄布を
集め続けて大切に使っていた、それを細かく切り刻んで、ふんだんに使っている。

大切にし過ぎてゆっくりとしか進めなかったことを、何かへの思いを捨てて
速度をあげようとしている。昨年末に、20歳から愛用していたミシンが壊れてしまい
工業用ミシンを使うことになったのも、身体に直接働きかけた、速度感覚の変化だった。

出来つつあるごく薄いテキスタイルを、部屋にひろげると、
漁師が投げ網して、たくさんの魚たちが網にかかって引き上げられて光っている光景が
浮かんでくる。ざわめく音も聴こえてくる。
そして、この網の向こうには何があるのか、どんな風が吹くのか。

空間と、そこでのパフォーマンスへの手がかりを探りながら、あと3週間。


b0114860_1825537.jpg昨年の個展DM「透明な果実」



b0114860_1824663.jpg今年の個展DM「逆光に宙返り」


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今年の春にひらいた個展は、5年ぶりの展覧会だった。
作品それぞれを、というより、その作品たちの狭間から見えない何かが浮かび上がって
きますように、との願いから「透明な果実」と題した。
そして。それは浮かび上がった、のだろうか。まだ遠くに,どこか弱々しく、それはあった。
気付かされたことや今後の課題と感じたこと、があったという意味では
確かに透明な果実を,私自身は受け取ったのだけど。

思いがけず,それから1年もたたないうちに、また個展の機会をいただいた。
来年の2月末。製作期間は少ないけれどなんとか,新作だけで展示したい。

制作ノートそのゼロ、で書いたように、ダンスとライブの方に傾いていたこの6年間で
ずいぶん制作への意識が変わったのだな,と改めて感じる。
今度の個展は、せっかく広い場所だから空間全体を使った構成にしたい。
ひとつひとつの作品を空間への配置を意識しながら展示、、というのではなく
ひとつの作品が空間の中へ砕け散ったような。
見る方が、その中へ入りこんでしまうような。
密度や温度まで変化しつつ揺れている空気。その中でパフォーマンスが出来るなら。

ではそのひとつの作品、とは。。考えのまとまらぬまま,手を動かしてみる。
シルク布を丁寧にほぐして繊維の一本一本を空間へ差し出す。
これを主旋律として、さてここから。
小さなつぶつぶを浮かべたい。キラッと光るかけら。そして、亀裂を走らせる。
わからぬままに、ただ手を動かす。てんとう虫が茎の先端まで来て、立ち止まる。
束の間の逡巡のあとに羽根を開いて飛び立つ。
あんな風に、作りながらある瞬間にイメージがすいっと飛び立つときを待っている。
実際には、しょっちゅう考え込んで手が止まってしまう。

残るものは、今はなるべく作りたくない。
ざわめいている揺れている思い出しそうになる、そんな感情。に焦点をあてている。

踊っていて、さてここからどうするの、と身体に問いかける時がある。
又は身体の方がとまどい黙り込む瞬間。そのとき、空間が揺れているのを感じる。
その揺れを、そのまま立体の世界へ移してみれないだろうか。
そしてその揺れの軌跡がギャラリー空間に拡げられたなら。
そうしてはじめて、ギャラリーで私がさらにそこに立って何かを始める、こともできるだろうか。

あれこれ思いを書いてみたものの、なんだか抽象的な言葉ばかり。
まだまだ何も具体的にはなっていないんだなぁ、とがっかりしながらも、
これが今の時点での、「制作ノート・その1」

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近々ホームページを久々に更新するということもあり、
制作にまつわる様々な思い等書く項目を新たに作りました。
日々のブログだと書き流してしまいそうな、又は書けないままで終わらせてしまうような
ことへも、丁寧に向き合ってなんとか言語化していく、試みを始めます。

”制作ノート そのゼロ ” では、もう6年も前にダンスワークショップに通い始めて
初めて参加させてもらった公演(2010. 8.29)に際して書いた文章を書き写します。

「息づくものたち」
動物と植物のあいだにあるような”かたち”を作っている。
私にとって立体造形で一番大切なのは、それが空間の中で呼吸をしているかどうか、ということ。
上手く出来た時は、本当にやわらかく息づいているように思えるのだ。
そして、ギャラリー空間の中でそのオブジェはひそやかに呼吸を続け、
空間があるなまめかしい色合いを帯びていく。

いつも作品と空間との関係に何よりも興味を感じながら、もうひとつ、
その関係に中に自身の身体も入っていけないか、と思っていた。
自分なりにあれこれ試してみたものの、出来ることしか出来ない。
その先へ行けない。
もっと飛び越えたい、という気持ちが強まった頃、
室野井洋子さんのワークショップを知って参加するようになった。

月に1回のワークショップは、今まで気付かなかった身体の深さの中へ落ちてゆける
貴重な時間だ。二人がペアになってお互いに身体を動かしたり預けあったりもする。
人の身体に寄り添って集中することで、逆に自分の身体ともしっかり向き合えるように
なっていった。またワークショップの中で、室野井さんの言葉の使い方には
独特なセンスがあり、身体と空間への意識と同時に、言葉への意識も
ずいぶんと刺激されてきた。

そんな中で、作品制作も変化していった。まず、制作する時間の中への
入り込み具合が変ってきた。作ろうとする”かたち”の中に、
自分の身体の感覚、記憶がくい込んでいくのだ。
いや、まだくい込むというには迫力が足りないが、それが始まったことを感じる。
そしてもうひとつの発見は、”ある時間の中での身体”を実感することで
音、音楽、というものをどう捉えるか、に興味がいくようになったこと。

身体とオブジェと音、それぞれの呼吸が空間を自在に飛び交い
自由奔放に関わりあうことが出来るなら...
瞬間瞬間を捉える力、動きに自然についてくる呼吸、枠を越えようとする意志、
どれもまだまだ力不足で道のりは遠いことを痛感するけれど、
その方向へ向かって走り始めた身体が嬉しい。
誰よりも近くにいて、誰よりも遠くにいる自分自身。
願わくばある瞬間、やってきた音に飛び乗って遥か彼方へ消えていきたい。
そしてその後、置き去りにされたままの身体を感じたい。

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